私たちは何かを勝手に「卒業」できるのか / プレステージ加藤

私たちは何かを勝手に「卒業」できるのか / プレステージ加藤

中二病、ミサワ、マウンティングetc. これまでいろいろあったけどそれが文字となって現れるが故に心を痛めるネット社会SNS時代というものだろうか。

「邦楽はもう聴かない」

から数ヶ月を経て

「もうマライアもだめ、これからはデフレパードを聴く!」

90年台前半の私の中学時代、朝のホームルーム前にこう叫んでる同級生がいて未だに彼の中で何が起こったのかは分からない。何故そこから“デフレパード”なのか、彼らが出演していたフレディの追悼ライブなどを見返してみて素晴らしいのだけど、そこだけは謎としか言いようがない。

しかし世紀の歌姫マライア・キャリー氏は(たまたまだと思うけど)こういう場面で登場しやすい印象がある。

物事の「導入」でありその後「卒業」の対象とされてしまう
→大曲「恋人たちのクリスマス」は大曲が故

「クリスマスの古い曲」の象徴とされてしまう(しかし未だに素敵なカバーが出てきたりする)
→その集大成か、マライアがグラストンベリーのヘッドライナーになると噂になると、何故か日本語のTwitterで嘆き出す人が多数

上記のような人がいる、日本で、、、ということはどうでもいいけど誰しもがもつこの「勝手に卒業」という感覚はなんなんだろう。

その90年台のちょっと後ヴィヴィアンが流行って街にヴィヴィ男ヴィヴィ子が溢れたけど、いきなり大勢が「勝手に卒業」して「これからはアンナ・モリナーリ!」とか言いだすこれまたよく分からないなど思うことが起きた。

彼・彼女たちはヴィヴィアンの歴史・精神=センスがすきだったわけではなく雰囲気が可愛いってことだけだったんだ!とか思って若かった当時の私は「勝手に」怒ってたのだけど、怒ってた自身も結局「そういうことじゃない」と言いたいだけの中2精神の現れに他ならないわけだった。今も少しそう思ってしまうな。

書いていて、少なからずどちらの精神も持ち合わせてるな思ってしまうけど、好きなものそのもの及びあり方に対して「勝手に卒業」とか「勝手に怒る」のを延々と繰り返しつつ(自身においては台湾という国がそうなんだけど)、本当に「卒業」はおろか「飽きる」とか「誰々が~って言うけど、、、」などという次元にない、熱中できるものを獲得していくのかなと思います。

文責:プレステージ加藤

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