トーニャハーディングを名乗る者がアイ,トーニャを観た

トーニャハーディングを名乗る者がアイ,トーニャを観た

アイ,トーニャを観てきました。どんな映画であるかは大体知れ渡っていると思うが、アメリカ人として初のトリプルアクセルをキメたトーニャ・ハーディングというフィギュアスケート選手が関わったとされるとんでも事件やボクサーへの転身などその壮絶な半生についての伝記映画。


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この俺がね・・・またしょうもない。(しょうもないっていうか病気だよね)

本当に起きたことがどうであれ、それは愛と呼べるのか、逆にあの場に愛や友情は全く無かったと言い切れるか、己にとって都合の良い事実以外に事実と言えるものはあるのか、というのを強く投げかけてくる映画で、俺がトーニャハーディングを名乗る原因、ご本人の映画ということもあり、とても重かった。トーニャ・ハーディングさん本人や彼女を取り巻く環境をバカ、質の低い生活、愛が無い、と断じるなら、あなたの言う正しさ誠実さあるいは愛と呼んでいるものはどうやって証明できるのだろう、それはとても疑問に思う。俺は彼女のことをバカに出来ない。

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日本でも、情熱大陸やスポーツ選手のあれこれ、芸能人の密着、もちろん何にでも学びはあるけど、別に全然イイ話でもねーな、泣かそう泣かそうとしてるけどうーん、みたいのあるじゃない。例えばそれが元々かなり好印象の人物であったとしても。情報の切り取り方、編集、見せ方、そして演出やそこに脚色まで加わるともう真実やオリジナルが何なのか良くわからなくなる。全ての真理だけを見抜く、見抜けるワタシ、そんなことにこだわるのもアホらしい。また逆にわかったようなツラで何にでも気軽に言及している人間は浅はかに見えるものだ。

ラストに言われている、敵味方に分けて線引きをすること(”敵”を作ること)、ワンサイドのモノの見方に終始すること、その危険性を問うている映画だった。でも、そんないつも冷静でいられるかよ、正しいか間違ってるかの判断よりも思い入れが先行してしまうこともあるだろうというのが人間で。そういったところも織り込み済みで、決して浅はかな人間達が巻き起こしただけのドタバタ劇のようには思えなかった。

ここからはかつてmixiでハンドルネームを持つときに「トーニャハーディング」と名乗り始めた者のことを書く。

タイトル「トーニャハーディング is still alive」としているこのブログは、2008年の3月に開設していて、10年経っている。それ以前からDJとして「トーニャハーディング」を名乗っていることになるのか・・・しょーもない投稿や人に見せることをほとんど意識していない手書きの日記のアーカイブなどがほとんどで、そのうちしょーもない超えて本当に無意味どころかマイナスでしかないものは早く消したい気もするし、意外なほどに読まれている投稿もある。

去年、アメリカでこの映画が公開されて、その時点で俺にとってGoogleやSNSでエゴサーチがあまり有効じゃなくなってしまって笑(元々勝手に名前を使ってるからいつそういう事態が訪れてもおかしくはなかった笑)、日本語版の公開が近づくとそれが本格化した。

2017年は自分にとって色んなことが転換期となった。まずはDJ活動。このブログ含め対外的には多くを語らないということを関係者間で約束したので、気持ちはこのブログにも掲載しているDJ MIXにだけ込めた。DJをする機会は激減して、如何に自分が去年までの環境に依存していたかを思い知った部分もあるし、それだけその活動に時間やリソースを割いていたのだということも再認識した。そして情熱だけでtracktop girlを始めた。

依存と書いたけれども、適度な距離感で自分を面白がってくれる人なんかも極稀にいて、そっちの事情はどうでも良いからDJをやってくれとパーティに呼んでくれたり、なんとなく察して気を遣ってくれて様子を伺ってくれたり、新潟に呼んでくれてDJ、弾き語り、tracktop girlの撮影までさせてくれたり。そして来月はmarble≠marbleさん主催の京都のお寺のイベントに呼んでいただいたり。単に自分を1人のDJとして、なんか色々やってて良くわからないけど面白いから来てみそ、などなど嬉しい限り。感謝。

プレステージ加藤とは完全にたまに会ってメシを食う、飲む行為をするだけの関係が数年続いていたものの、お互いの環境やタイミングなどが整いつつあり、やっぱり音楽やりたいよねということで、DJではない、音楽を作ったりやったりするユニットとしての「トーニャハーディング」も久々に動き始める感じ。(こちらの出演オファー、制作オファーも待ってます笑)

とは言え、前述の通り「トーニャハーディング」という名前はもうエゴサーチに不向きではある笑。名前の問題は例えば我々が何らか大きな局面に立った時に焦れば良いだけで、本質はそうではなく(いや、本当はネーミングはメチャクチャ重要な問題だというのはわかっています)、tracktop girlだったり、音楽だったり、このブログだったり、コンテンツと呼べるものを作り、わざわざその成果物なり告知をきちんと拡散してもらえる存在であったり、わざわざそれらのリンクを貼って感想を書いてもらる存在になることこそが重要。

自分がそうであるように、何か良い感情を持った、幸せな状態である、としてもそれが他人にまで推薦したくなることは稀。リンクを貼ったり事細かに説明して人を動機づけようと思うことはさらにレアケース。いいね、RTまではなんとか集められても、自発的な行為までは・・・となると、自分がやっていることを面白がって広めてくれようとしてくれる行為や関わろうとしてくれる人がどれだけありがたい存在なのかということを再認識する。

文春砲Liveがあって、アンダラで斎藤ちはると相楽伊織の卒業発表があって、今日アイ,トーニャを観て・・・メンタル的には堪えることが続いているものの、やはり自分は人に支えられているなと実感する。(アンダラそのものは最高だったし!) トーニャ・ハーディングさんや彼女の周りにそういった愛の実感、感謝を言動で示し相手に何かしてあげたいという気持ちの重なり合いがもう少しでもあればあんなにつらいことばかりが続くことも無かったのではないかなと思いたい部分と、例え心の奥底ではそう思っていてもボタンの掛け違いや良心すら飲み込んで黒く塗り潰してしまうような社会・差別の環境などから負のスパイラルが止まらなくなるようなこともあるだろう、と落ち込みもする。

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