銀座でしか買えない写真集「cube」とセブンイレブンでしか買えない「溺死ジャーナル」

銀座でしか買えない写真集「cube」とセブンイレブンでしか買えない「溺死ジャーナル」

銀座でしか買えない古賀学さんの写真集「cube」と、セブンイレブンでしか買えない松本亀吉さんの「溺死ジャーナル」を読みました。

※ちなみに、cubeは現在はamazonなどでの取扱もあるようです。入手した時はGINZA SIXにある蔦屋書店のみで販売されていました。

人のライブ、音楽、展示、その他諸々コンテンツに触れ「ブログに書きます」と言ってウソになってしまったことが何度もある。

当の本人はすっかり忘れていると思うのでそんなに気にすることでも無いのだろうが、何故やってもいないうちからいつもそんなことを相手に言ってしまうのだろうと自分が嫌になる。

ビジネス本を読んだ直後、大人数相手に立ち回りが上手な人の話を聞いた直後、テスト前に超頭良い奴のノートをコピーさせてもらっている時(いま思えば神かよ)などに似ている。

それらは麻薬なので、摂取前後はやる気がMINAGIり拳を振り上げ大声で歌いがち。しかしテストの点数はギリギリ、ギリギリでいつも生きていたい。そしてしばらく立つと内容の大半も忘れて行動しなくなる。忘却曲線に従順な私。

危うく大恩ある古賀学さんに対しても同じ過ちを繰り返すところだった。だがしかし、本日このツイート

をたまたま目にすることが出来たおかげで、それは回避できた。こんなブログで触れることで古賀さんに恩返しが出来るとか、恩着せがましい何かをふっかけたいのではなく、あくまで自分の問題。しかも「溺死」から「水中」を連想して水中ニーソを思い出すなんて、誠に申し訳ございません。

水中ニーソがプールの中を出て街と融合したときに、

マリオの海面、裏技か何かで普通のステージが海面になったようなあの不思議な感覚が呼び覚まされて、古賀さんは行くところまで行ってしまったなと思った。

でも、ピーク時には恐ろしいほどの人口密度になる街を、人気のない早朝に撮ると、その青みと水の青みがマッチするんじゃないかと思えてくる。

彩度やハイライト等の技術的な加工の可不可だけでなく、マインド面、例えばクラブで夜を明かしたコンディション・時間帯に見る、外に出て暗くもないけどそんなに眩しくもない空と街のあの感じの「青」と水中の青は割りと親和性があるんじゃないかとも思えてくる。

発想がぶっ飛んでるだけじゃなくて、受け手の感想が千差万別ということもあるけどそれだけでもなく、あまりの完成度によって妙な説得力が生まれるのが恐ろしい。

そして水中ニーソは「cube」へ。驚いたうえに、少し悔しいという感情があった。箱と女の子って良いな、アクリル板を組み合わせた箱と女の子の組み合わせで撮影したいな、などと考えていたこともあって。上のツイートにもあるように、当然ながら古賀学の思考と体現は既にそんなレベルには無いのだけど。

そして、写真集cubeにある、青森県立美術館学芸員 工藤健志さんの「水の中の彼女について 私が知っている二、三の事柄」が凄すぎた。これを読んでしまって萎縮して俺のブログなんかと思ってしまった部分もあるが、本当にそういうのはどうでも良いので乗り越えてゆく。

自分が言葉で表せない水中ニーソの凄さ、不思議さ、気持ち良さ、気持ち悪さは全てロジカル且つ鮮やかに代弁され、それ以上に大きな学びがあった。水中ニーソが芸術の領域に達していることが再認識できる。

繁華街と合成することによって自由を表現していた古賀さんが、一見狭苦しい箱・cubeをモチーフにしてむしろ自由を謳えるのが凄すぎる。

スノードームは綺麗で可愛くて個人的に好きだけど、閉塞感や飽きの象徴のようにも思える。箱は狭い。水中、それは苦しい。マスクは顔を隠す。水着やニーソも肌を隠す。

それらを組み合わせることによって、それらが持つ不自由や制限をひっくり返してむしろ無限の想像や欲望を喚起するなんて・・・

以前我々トーニャハーディングはspa warsという楽曲で古賀さんに撮影をお願いしたことがあって、その時もとんでもない人にお願いしているという自覚はあったつもりだけど、5年経ってその想いを強めるとは。

そしてつい先ほど回ってきたこのツイートで、機を逃さず溺死ジャーナルをセブンイレブンでプリントアウトしてくることが出来た。

相変わらずの亀吉さん節のなかに、kiki vivi lilyについても触れられており嬉しくなった。キングジョーさんも最高で、FANZAのVRだけが心を癒やしてくれるような日が俺にもある。日記がこんなに面白いおじさん達って世界に何人も居ないと思う。お2人ともギリギリでいつも生きているのだなと思った。

個人的には整形前も整形後もツボな深田えいみちゃんの歯科モノVRに、ASMRのマイクみたいなのがガン映り込みしてて、でもそれへの囁きすらありがたいと思って涙した日を思い出しました。

最後のページでの亀吉さんの弔いと、亡き娘の葬式でボウイのスターマンを歌うお父様、それぞれの心境は想像もつかない。でもスターマンは大好きだし、相方のプレステージ加藤と自分を繋ぐ数少ない大切な曲でもある。

水中ニーソと溺死ジャーナル、「水」しか共通点は無いかもしれないけど、どちらも尊敬の対象で、心理的にも物理的にも届かない距離にある感じの人たちが生み出している畏怖の対象でもある。

なんで自分より才能や人徳がある人間が先に死んだり苦しんだりして、自分は醜く生き続けているんだろう、そう思う日もあるけど、何歩も先に進んで歩き続けている人もいるから、少しは前を向くこともしたい。

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