21世紀の女の子と森喜朗さん

21世紀の女の子と森喜朗さん

括弧つき

「21世紀の女の子」がAmazonプライムに来ていたので観ました。これは映画館で観ておいた方が良かった。朝倉あきさん、伊藤沙莉ちゃん、黒川芽以さん、日南響子さん(!)、山田杏奈ちゃんなどなど好きな子たちはやはり美しく、単に大きな画面で観たかった。

新進気鋭の映画監督15名が集結し短編を集めたこの「21世紀の女の子」。企画・プロデュースそしてご自身も監督の1人である山戸結希さん。彼女の作品について私はいつも揺れていて、というか揺らされていて、複雑な気持ちになることが多いです。溺れるナイフしかりホットギミックしかり。

深川麻衣

推しメン深川麻衣さんの卒業センター曲であった「ハルジオンが咲く頃」、山戸さんがMVを担当していて、こちら曲とMVにあまり入り込めませんでした。この曲関連で泣いたのは、卒業した深川さんの代わりに神宮球場のライブで川後さんがセンターを務めたときでした。

「21世紀の女の子」の一部作品と「ハルジオンが咲く頃」に共通する、括弧つきの『百合』が少し苦手かもしれません。

事実は小説よりも奇なり、という表現がありますが、百合を殊更にエッジ立てたりナイーヴにしなくても、現実にレズやバイの方でもより激しかったり狡猾だったり言い方は悪いですが個人的に友人関係でいるのがつらいようなエグい方々がいるので、作品で観たときにどう受け止めていいのやら、という気持ちに。

括弧つきの『タバコ』『セックス』も苦手で、特に『女性がタバコを吸っている』SNS上の写真などは苦手です。

とにかく素晴らしい山田杏奈

そういったモヤモヤを晴らすではないですが、「21世紀の女の子」の一幕「恋愛乾燥剤」でも素晴らしい好演をしている山田杏奈ちゃん(本当に本当に本当に本当に素晴らしい女優)が、同じくAmazonプライムで観られる神ドラマ「新米姉妹のふたりごはん」で最高の世界を魅せてくれるのです。

新米姉妹のふたりごはん

ゆるふわなようでいて強さで言えばアベンジャーズ級(なんでもアベンジャーズに例えたいおじさん)の可愛い子たちが出てくるヤバいドラマです。

血のつながらない姉妹のちょっとした心のやり取りや気遣いにいちいち涙します。そして美少女、美女たちと共に出てくる絶品料理・スイーツの数々・・・演出された咀嚼音。

端折ってしまうと新米姉妹もとどのつまりは「百合っぽさ」の仕込みが肝となっているのですが、括弧つきの『百合』に全振りしないその「百合っぽさ」に心惹かれるのでしょう。

大胆な性を描くことも必要かもしれないけれどそれとは異なり、その後がどうであれ、余白であったり不完全であったりする心情を、美しいキャストや映像美と共に作品とすることに心酔してしまいます。

新米姉妹には芦名星さんも素晴らしい役でご出演されています。美しくて、ロー&ハスキーで特徴的なボイスも素晴らしく、好きな女優さんです。ご冥福をお祈りします。彼女はこの作品や多くの作品を通して愛や孤独を体現してきた人でしょうから、画面や作品のフィルターを通していても、想像が膨らんでしまって今のところ涙なしで彼女を見ることは出来ません。

恋愛乾燥剤

21世紀の女の子のなかで山田杏奈ちゃんの出ていた「恋愛乾燥剤」、中華料理屋の店員さんがケイスケカンダのジャージを着ていたり、「電影と少年CQ」のゆっきゅんさんが出演していたりと、時代のアイコンが散りばめられていることも嬉しかったです。

好きなタイプの「世にも奇妙な物語」感のある、またストレートに性を扱っているのに映像美も含めてどこか清涼感のある、素敵な作品でした。サブカルと情報量の総力戦、みたいになっていないところが素晴らしい。

私運営のジャージ女子のポートレートサイト「tracktop girl」で、ゆっきゅんさんの相方・ルアンさんにモデルを務めていただき、ケイスケカンダ(銀杏BOYZコラボ)ジャージを着ていただいたので、かなりグッと来るものがありました。

21世紀?

大団円・エンドロールの曲が「LOW hAPPYENDROLL –少女のままで死ぬ–」 by 大森靖子&平賀さち枝という、もうお腹いっぱいですよという感じの輪郭付けがここでも行われております。でも平賀さち枝さんの声は素晴らしいなぁ、好きです。

「21世紀」も「女の子」も「性」も「LGBTQ」もメタにならざるを得ないところはあるでしょう。でも「愛を語るより口づけをかわそう」で思春期を過ごした世代なので、言葉数や言葉の棘でなく、キャストと映像と間(≒わびさび)の暴力で殴ってよ!と思ってしまうところもあります。

これは乃木坂も含めた最近のポップスで早口でまくしたてるような曲が多いのに対してついてゆけてない事に似ているかもしれません。そんなに1拍の間に言葉数、セリフの詰め込みが必要ですか?と。

(そう考えると、おじさんみんなが歌える「成り行きまかせの恋におち時には誰かを傷つけたとしてもその度心いためる様な時代じゃない」は本当に凄かったな・・・)

少し前に読んだ、マキタスポーツさんの「一億総ツッコミ時代」を思い出しました。ああ、作品でさえも「ツッコミ」視点が多いんだなと。

これ本当に名著で、マキタスポーツさんはだいぶ前からSNSなどによる「ツッコミ過多」の状況を危惧されていて、それでは涸れ果ててしまうから、「ボケに回ろうよ」とおっしゃって実践されています。素晴らしい。私なぞは「みんな評論家になってる」などと嘆きのポーズを繰り出すだけ。

前述したWANDS屈指の名曲「愛を語るより口づけをかわそう」なんかも、曲名からしてボケてます。本当に今でも大好きで、ライブDVDなど見ると昇様だけでなく、柴崎様のギターも凄すぎて泣いちゃう。

圧倒的実力・ビジュアル・楽曲クオリティに裏打ちされた、イタリア人の口説き学 ~幼年期編~ にも出てこないような恥ずかしいセリフが曲名。その曲名をサビ毎に熱唱します。でもイジってませんよ、上杉昇様のボーカル、作詞能力は本当に素晴らしいです。

で、こういうもの、ビーイング的なものを、「恥ずかしい」としたとして、21世紀となって久しい現在は、そんなに進化しているものなのでしょうか。

森喜朗さんの失言

森喜朗さんの失言は今に始まったことじゃないですし、少しネットニュースを見た限りでは頑張って擁護しようとしてもかなり難しいものだとは思います。

余談ですが、かつて早慶戦の観戦にいらしたときに、慶應陣営だけでなく母校の早稲田側からも大ブーイングを受けたというのには大いに笑いました。(そういう事態を何度招いてもずっと『スポーツ』に関わり続けてる、無敵ですね。誰も勝てない)

擁護する必要なんて無いですが、それにしても、『偉い人』に対してなら、昔首相までやったそうじゃないかこんな人が的な意味合いで、罵詈雑言を浴びせて良いのでしょうか。その矛先は次はどこに向かうのでしょうか。

今の時代、人格や年齢からしてもポストに見合う人物では無いのかもしれません。が、彼の発言を知った多くの人間の行動こそが、この先の時代を構成する主な要素であると思うのです。

でも、ドラマ3年A組における菅田将暉のSNSへの叫びが今や多くの人に忘れられているように、こんな祈りはほとんどムダであるということも痛感します。

こんな私にさえも連日Clubhouseへのお誘いが来ることを見ても、人々は過剰に繋がりたがっているし、監視したがっている。何かを正したがっている。ルールやツールはもう要りません。コンテンツ、ボケが欲しいです。

これから

とても勉強になるカメラマンさんのYoutubeを見ていたら、とあるちょっとした行為に対し、コメント欄に「そんなことしてはいけません。行政に通報しました」と。それを見ただけで本当に辛い気持ちになりました。

楽しいことを求めてネットをやっていたはずなのに、何故こんな些細な部分に気を取られてしまうのだろう、いつまでも慣れないのだろう、と思います。

「21世紀の女の子」では、一部作品の素晴らしさ、女優の素晴らしさに感動すると共に、「これが21世紀?」と疑問に思ってしまう面も多々ありました。

かつて、ひと回り以上若い子に「ツイッターのアカウントを5つ持ってる」「友達だとは思っているが監視し合うためにリストを作っている」・・・「こんな事はみんなやってる、当たり前」などと言われてゾッとしました。単純に怖いと思ったことと、全くついてゆけない自分にゾッとしました。

そういった恐ろしい感覚をあの短編映画集に持たなかったことはとても幸いでした。その一方で「わかる」「共感!」とかでは全然ないですしおっさん超えてもうジジイ入ってきた人間が「わかる!」なんて泣いてたらヤバいです。

齟齬を生まないように、ジジイ、とは見た目はもちろんですが主に中身の問題です。それに加えて、与えられた性、商品化された性に私もとても無頓着、無節操であることを反省しています。

「これこそが21世紀の女の子です」では困るけれども、「21世紀にはこんな女の子もいます」なら腑に落ちると。より不可解でバラエティに富んだ美しさにも出来れば触れたい。

仕事中に「網羅性が無いと意味が無い」などと噴きあがり始めたジジイがいたんですが「何で?」と聞くと的確な回答はありませんでした。安心したいからだと思います。そういうジジイに「何で?」と問う私もどうかしてました、ジジイの深淵をのぞく時、お前もまたジジイである。

美しい女の子を題材にした映画の話ではじめたはずが、ジジイの話で〆る本当に酷いブログで申し訳ないです。これからはこんなに愛し難いジジイ、

- 例えばあなたが少女だとすると思春期よりだいぶ前にお父様と一緒にお風呂に入ることを「キモい」と回避し始めたはずですがそのお父様と同等の存在それがジジイ、

何周か回って「キモい」を薄くしてゆき、「どうでも良い」に辿り着き、「まあ、ママとコイツが居なけりゃアタシも生まれてなかったのか」となる。

最終的には「なんだか憎めないし大福でも買って帰ってやるか」になって欲しいのです。好きになってくれとは言いません。あわよくば喉に詰まらせて死にますから。

日記カテゴリの最新記事