「3000回愛してる」
自分の人生に足りなかったものは、恥ずかしくても相手にそう伝えることだと気付かされました。いい歳して独り身だと、諦めとか、死とかのイメージが付きまとって本当に離れなくなるんですよ。
過去のブログで2回に渡り
キミスイについて書きましたが、キミスイでは最後の膵臓ちゃんの手紙とミスチルのhimawariによって美し過ぎる両想いが補完されました。そうでなくとも、病院で膵臓ちゃんが僕に抱きつくところと(僕のホバーハンド)、小栗旬の上手過ぎる病み演技を観れば充分なのですが・・・
ネットでは「急に告白されたキモい氏ね」「告白は完全に両想いだとわかってからの儀式」「距離感が大事」こんな書き込みが称賛されます。そして時代の流れもそうなったのかもしれませんが、中途半端に貧富の差が拡大してヒマを弄び、自我が肥大した人々の遊びなのですかね。
自分は正しい、自分は適切なタイミングで適切に扱われるべきだ、そう思うことは自由だしそうなるように努めることも良いと思いますが、それを言ったところで相手をコントロールできるものでしょうか。キミスイでもこの問題について描かれています。
そしてつい先日公開となった「アベンジャーズ エンドゲーム」。
思えば非常に醜い言い争いや仲間割れを繰り返してきたアベンジャーズですが、激昂したり、誰かを罵っているときの自分は彼ら以上に醜いかもしれないなと思いました。
「シビルウォー」で袂を分かつことが決定的になったキャプテナメリカとアイアンマン。終わりにキャプテンから手紙と携帯電話が贈られてくるものの(あのシーンも泣いちゃう)、続く「インフィニティウォー」では緊急時にもアイアンマンが電話をかけるのを躊躇い、そして2人は共闘もできず敵に敗北を喫します。
エンドゲーム予告編ではキャプテンとアイアンマンが握手をしているシーンを観ただけで泣いてしまったので、本編ではとんでもないことになりました。最初から最後までほぼずっと泣いてました。勿論アクションや美麗な映像全てが凄かったのですが、まさかここまで家族、仲間、内面にフィーチュアしたものになっているとは。
「ドクターストレンジ」「ガーディアンズオブギャラクシー」単体としては良いけど、アベンジャーズに出したのが納得いかないという人が会社にいるのですが、ストレンジキャラ達のあの短い尺の活躍でアベンジャーズ1作目もドクターストレンジもインフィニティウォーも(それ以外も全部)見直したくなる作り込み。
そしてシリアスさの中和に必須過ぎて、ガーディアンズ達のお下劣さがむしろ崇高なものにすら思えてくる、これが様式美か・・・新喜劇や宝塚にハマる人たちの気持ちってこういうものに近いのかもしれない。
ヒーロー間の友情、愛情。そしてヒーローそれぞれが持つ苦悩、病み、愛に寄り添って作られているように感じ、誰かを愛すること、愛していると伝えることの重要性を再認識しました。いつ会えなくなるか、次があるかもわからない。特定の相手はいないんですが。でも家族をより大事にすることはできる。まさかアベンジャーズを観てそう思わされるとは。
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