ここは退屈迎えに来て / 山内マリコ

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ここは退屈迎えに来て / 山内マリコ
を読んだ。
「トーニャんにはきっと共感出来ない」
と言われ、
何を!この泣きた我リヤをなんと心得る。
“サンフランシスコ生まれ東京育ち”
の俺もきっとこの本に何かを見い出してみるぜ!
と年末に意気揚々と宣言しKindleで
この本を買ってみた。
Kindle端末じゃなくてiPhoneでも
読めるのよね!俺結構iPhoneで活字
読めちゃう人だから助かる!
※Kindleの無料アプリが必要
・・・で色々あって今までかかった。
1章?まで何とか読んでみたものの
それで閉じようとも思った。
でも最後までいってみた。
まあ何が起こるかわからんからね。
「センチメントの季節」思い出したよ・・・
あと日本橋ヨヲコ先生をちょっと。
引き出し少なくてすんませんね。
センチメントの季節をちょっとコミカルにした
感じというか。
まずタイトルが露骨!というか釣り!
「ここは退屈迎えに来て」
という絶望的来なさ。
真理ってのは厳しいもので、
そういう待ちスタンスの人に沢山の楽しさや
幸せが訪れることは無い。まあ作者も
それが言いたいのだろうが、露骨!
今日もどこかで待ちガイル
とある研究によると、街中で困った時に
「誰か助けてください」
では無く、
「そこのメガネの人助けてください」
「そこの赤い服の人助けてください」
など若干の具体性を持たせると、
助けてもらえる確率がそのヘルプ内容に
よっては大幅に上がるという。
これって人生、恋愛、マーケティングにも
通ずるね。マスで勝てなきゃニッチ、
デカいとこで勝てなきゃ狭いとこから始める。
顧客に顧客であると気付かせる。
もしくはわからないように扇動、行動喚起する。
ちなみに俺はTwitterで
「バレンタインの時俺にチョコあげたいって言った人結構いたんで、くださいね」
的なことを言ってもほとんど貰えなかったので、
Twitterを辞めたい。
なんていうかこの本の登場人物たちに
共感出来ないというよりは、
そんなこと東京にしか住んだことなくても
思うし、みんな孤独だしみんな焦ってるし
みんな大変なんだよ、と思った。
順風満帆にいってる奴なんて少数、
ほとんどの人間が色んな隔たりにヤられてる。
俺だって全てを捨てて沖縄に住んで
そして戻ってきたいよ。その時には
帰ってくる家は無いがな。
各話において各年齢を境界線的に用いて
強く意味付けしようとするのだが、
それがマーケティングリサーチの
年齢別結果みたいに見えて気持ち悪いのと、
実在のサブカルクソメンヘラに比べたら
カワイイ女たちじゃねーか・・・と
思ってしまう謎の俺ガイル。
田舎/郊外化がどうのこうの、以前に、
・何かとの比較でしかプレゼンスが得られない
・メタな私と、そうでない全て
物語を支配するこれがダメだった。
そういう層を一本釣りするために
設計・配置された、情報(記号)・比較・メタ。
1章で暗澹たる気持ちにさせられ、
“私は東京とか色々知ってるけど
 そして冷静に洞察や自己分析できるけど
 大した成功体験も無く、もしくは挫折し、
 いい年して冒険も出来ない。
 (地元の)無垢で「知らない」人たち、
 もしくは諦めた人たちと、
 生きていくもしくは真に交わることなく
 死んでいくのか。残念だな。
 まあ色々知ってるけど”
的な話が続くのかと不安になり、
実際、それ的な話が続いた。
サブカルクソ野郎がこの作品に共鳴するのは
なんとなくわかるし、ナンダカンダで
俺ももう1度は読むと思うよ・・・
でもやはり、作中、方程式のような
語りに使われる記号の数々、
本来俺の好きな音楽や店、
人によってはファッションブランドも
あるだろう、それをプロットや記号としか
思えないように誘導するのは悲しい。
また、イケてる、イケてない、が
極端に冗長された尺度であり。
その価値基準は誰が作ったんだろうね。
極めて自分都合の快/不快、ではダメなのか?
また「自分」にとっての、誰からも
干渉されない欲求・領域の追求は許されないのか?
メタから功利、そして自己滅却へ。
それがあるからこそ時に隔絶・断絶を
感じつつも生きていられるし、
恥を忍んで人に甘えられるんではなかろうか。
究極的には親子でも他人、夫婦でも他人、
親友でも他人であり、「真に分かり合う」
というのは単に言葉・記号であり、
そんな状態は存在しないし、
言葉で「親友だよね」と放つことの
気持ち悪さ・胡散臭さはそこにある。
自分の恥部を晒して、
もしくは失敗し恥をかいても晒し合う、
年齢などに縛られること無く
そういったコミュニケーションを
繰り返し経て、人と人とは
繋がってゆけるのではないか。
作中登場人物の間にそういった点も
垣間見えたことが救いだった。
また、ポーズとしての、
「愛してる」をどう効果的に使うか。
昨今の歌詞に出てくる「愛してる」が
全てギャグに見えたとしても、
実際には使わなければならない。
ここぞという時に、特に我々男性は、
ゲームのコマンドのように女性に、
もしくは愛する相手に、
当たり判定ギリギリのところで
「愛してる」を
使わなければならないのだ。
エヴァ破で言えば、レイが自爆覚悟で
持って飛び込んだミサイルは使徒のコアに
プロテクターが降り防がれてしまったが、
あそこで確実にコアを爆破して
仕留める感じにしなければならない。
あれ、何の話してたんだっけ。
最終話、女子高生のオナニーと淫夢の
話は良かったね。
でもガールズトークというのは
もっとエゲつないという話を良く聞く。
もしくは俺の周りが終わってるだけなのか。
あと、30くらいになってくると、
今まで誰にも言えなかったはずの
オナニーの話を真剣に語らい、
泣き笑い、鉄板ネタとして誇りにすら
思えるようになってきて、
「海沿いのテトラポットのところで
息を潜めつつ寒風と闘いながら・・・」
とか
「風呂場でふんぞり返って自らの放尿を
腹部で感じ、人のぬくもりを感じた・・・」
とかそういう良い話がどんどん出てくる。
これ20代前半くらいじゃ男であっても
そういう話が苦手な奴も結構多くて
合宿の夜でも微妙な空気になったりする。
それがさ、年輪を重ねて、脚色も含めて
色々と楽しめるようになってくるわけ。
いやわかんないけど俺はそういう奴らと
自然とつるめるようになって幸せだよ。
そんで、そんな心からバカやれる奴
=強敵(とも)を何歳からでも
必至こいて探して、
あー自分ダセーなと思いながらも
腐ることなく日々生きてくしか
無いんじゃないの?
ヤバいなと思ったら自然と
スラムダンクの安西先生が出てくる
くらいにはスラムダンク繰り返し
読んでるのが真のサブカルだよね?
あ、真のサブカルはもっとマイナーな漫画か。

 それでは・・・
 Beat your cajon!
 ※「Beat your cajon(カホン)!」とは・・・

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